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「希(ねが)わくばの詩(うた)」(田中希実著)を読む

約8分




はじめに / 世界で戦うランナーが綴った一冊


 陸上競技の中距離から長距離で,日本のトップを走っているアスリートがいます.1500mと5000mの日本記録保持者でもあり,陸上界を代表する存在である田中希実さんです.トラックで先頭を切って走る姿,そして世界の強豪たちと互角に渡りあって,数々の素晴らしい競技成績に目を見張る思いです.

「希がわくばの詩」/ 詩だからこそ伝わる心の声


 その田中さんが,「希(ねが)がわくばの詩(うた)」(世界文化社,2026年4月)という本を出版しました.

 ユニークな本です.まず印象的なのは表紙です.そこには,記録に挑むアスリートの厳しい表情ではなく,軽やかにランニングを楽しむ,あどけない少女がランニングしている姿と動物の姿が描かれて,どことなくファンタジックな雰囲気です.田中さん自身,読売新聞のコラム(空想書店,2026.6.14.)にファンタジー小説への親近感を述べていますから,このような幻想的な自分の姿を望んでいたのでしょう.
 本書は,2025年1月の全国女子駅伝から,同年9月に行われた東京世界陸上までの期間に,世界各地で行われた1500や5000mなどの競技の合間に綴られたエッセイや詩をまとめたものです.日々の練習や合宿,大会の合間のそのときどきの田中さんの思いや心境や考えは詩で表されており,詩の背景はエッセイに綴られています.その文章の間に,田中さんの競技の様子,ランニング姿の写真が載せられており,これらの写真はエッセイや詩の背景を写し出しているようです.とは言っても,本の中心になるのは,詩です.

 詩という表現方法は,田中さんの心を最も素直に表しているのではないでしょうか.自分の気持ちを文章で表そうとすれば,通常は主語と述語を備えた散文になります.しかし,心のありのままの姿を赤裸々に表現しようには,散文よりも詩の方がふさわしいでしょう.
 心の中から浮かび上がる思いを,言葉として丁寧にすくい取り,一つ一つ並べていく.その表現方法こそが詩なのです.このような表現は決して容易ではなく,高い言語感覚がなければできません.田中さんは読書が好きで,文章を書くことも好きだと書かれています.その豊富な読書経験が,言葉を選び取る力を育てたのでしょう.田中さんには,詩という表現形式が似合っているのでしょう.
 でも,詩をさらさらと読み流すと,大事な言葉をツルリと見逃してしまいます.詩を読むときは,立ち止まり,戻りながら,二度,三度と読み返し,一つ一つの言葉を舌の上で転がすように味わいます.この本の場合も同様です.
 そうすると,田中さんの言いたいことがわかってきます.そのとき,田中さんが爽やかに走る写真を眺めながら,詩を読んでいくと「ああ,こんなことを考えていたのか」と,その心の動きが伝わって来るようです.

本書で田中さんが言いたかったこと /「走ること」とは何か


 田中さんは本書を通して何を伝えたかったのでしょうか.それは,日本を代表するアスリート,さらには世界を舞台に戦う一人の競技者の心の内を,率直に見せて,アスリートの心は決して鋼鉄ではなく,私たちと同様に繊細で,高い目標に恐れおののき,挫けてしまうことを教えてくれます.
 しかし,田中さんは,自分の心と対話をし,自分の心を見つめて,迷いを吹っ切って前を見つめるようになります.自分の心を見つめるには言葉を使います.言葉を使って,自分の心の外側を覆っているものを取って,心の核心に何があるのかを探っていきます.それは容易なことではありません.何度も言葉を変えて,自分を何度も見つめ直し,さらに自分の心と繰り返し対話し,ようやく心の核心に迫れます.
 田中さんの心の核心は,「走ること」への思いです.田中さんにとって走ることは,ただ速く走ることではありません.誰かに勝つことでもなく,賞賛を得ることでもありません.ただ純粋に走ることそのものに人生を捧げたいという思いがあります.そのような心情が,あちこちに書かれています.一例を引用します.

(59ページ)
 自分はただ,今,自分が走りたいから
走っているだけなのだ
誰のためでもなく,何のためでもなく,ただ自分が走りたいがために
走っているだけなのだ

 しかし,実際の競技ではライバルと競い合わなければなりません.思いどおりに走れないこともあります.敗れることもあります.そこから迷いが生まれ,自分を責め,自分を見つめ直す日々が始まります.また,コーチであるお父様との葛藤や,怒りの感情も書かれておりますし,このような,ささくれ立った心や荒れた心も,率直に描かれています.そして,そのような葛藤は何度も繰り返し現れます.迷いも苦しみも,何度も姿を現します.それが人間の心なのでしょう.
 人は望むからこそ前へ進みます.その一方で,望みが大きいほど葛藤も深くなります.その苦しみもまた,本書には率直に綴られています.

(103ページ)
人は心の底から望むから狂うのだ
それでは最初からのぞまなければ良いのか
多くを望まず,身の丈に合ったことだけをこなせばいいのか
・・・
望むことさえも許されない世界に墜ちた時,人は,私は,
それでも生きていけるのだろうか

でも,田中さんの心は少しずつポジティブに変わっていきます.最後には,次のような言葉も綴られます.

(207~208ページ)
私はまだ生きている苦しまない
楽しまない
その瞬間を聞き,感じ,調和する
そして生き残る
・・・
人は誰かの代わりに生きることも
誰かの分を生きることもできない
人はその人の生を生きることしかできない
一切の我欲,いや人の欲を捨てよう
ただ生きる,ただ走れるだけで悦べるように

このような言葉を生み出せるのは,心の葛藤が深く,その中で十分に悩み,自分の心を見つめなおし,自分の心と対話したからでしょう.苦しみも迷いも人生の一部として受け入れる強さがあるからでしょう.それにしてもこんなに澄んだ気持ちになり,心が静かになれるとは羨ましいです.
 205ページに及ぶ独白を経て,本書の最後に,「語り尽くせない物語ができました.どんな苦楽も,私の物語にとって欠かせない一節となりました.迷うことも,恐れることも,無くなりました」(202ページ)
 その言葉のとおりに,2026年6月に行われた陸上日本選手権での女子1500メートル決勝で,田中さんは4分11秒80のタイムで優勝し,7連覇を果たしました.そのときのNHKのインタビューに答えて,「きょうのレースでは,自分自身との戦いに勝って優勝を決めることができてよかった.1500メートルはすごく大事にしている種目でもあるので,連覇には価値がある」と言っていました(NHKニュース,https://news.web.nhk/newsweb/na/na-k10015149821000).本書を読んだあとでは,この言葉には格別の響きがあります.

創作への意欲 / ランナーの先にある作家という夢


 最後に,田中さんの創作への意欲を述べます.
田中さんは,言葉に対するあつい信頼を吐露(とろ)しています.

(37~38ページ)
私は,言葉の力を信じる
自分が自分の言葉を信じたいからだ
信じるために行動したいからだ
魂が宿っているからだ
私の生きた敬啓が,与えた魂だからだ
それは,消えることがないからだ
いつか素晴らしい速さで走れる強い女性になりたい
いつか素敵な物語が書ける優しい大人になりたい

 上の詩も触れられているように,田中さんは,言葉に対して深い敬意を抱いています.そして,「素晴らしい速さで走れる強い女性になりたい」と同時に,「素敵な物語が書ける優しい大人になりたい」と,願っているようです.
 そのことは,上に述べた読売新聞のエッセイからも伝わってきます.そこでは,児童文学やファンタジーに対する親近感が率直に語られています.本書においても,アイヌの神話や日本神話に親しんできたことが紹介されており,さらに,作家梨木香歩さんなどの小説を愛読していることも記されています.
 このように,田中さんは創作の世界に強い憧れを抱いているようです.実際,本書の137~155ページにかけて,アイヌの神話や日本神話などを題材にした創作作品が収められており,創作に対する思いが伝わってきます.
 将来は,ランナーとしてだけでなく,「走る作家」「走るエッセイスト」として新たな才能を発揮してくれるのではないかと期待しています.次に出版される本は,もしかするとファンタジー作品になるのかもしれません.とても楽しみです.

以上





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